J.C.C.クロニクル

 冬季谷川岳幽ノ沢
冬季谷川岳幽ノ沢全景
 

J.C.C.クロニクル

「クラブを通じ、山を通じて、より良き人間を完成し、より優れたるクライマーとなろうではないか」

 1958年10月4日 わがクラブと私達  古川純一

「私達は喜びに交す握手を忘れなかった。ほんのりと色づく石楠花の花が疲れを忘れさせ、エボシ尾根を辿れば、コップ状岩壁を吹き上げる涼風が汗ばんだ肌を通り抜けた。」

 1958年6月1日谷川岳一ノ倉沢エボシ沢奥壁中央カンテ登攀記録  小森康行

 アルピニズムに徹したクライマーの集まりとして発足したクラブの創立山行は1958年の谷川岳一ノ倉沢烏帽子奥壁中央カンテであった。続いて幽ノ沢V字左、同中央壁右フェース、翌59年のV字右、そして剣岳池ノ谷剣尾根ドーム稜の冬季と創造的なクライミングが行われた。同年末から60年の1月にかけては穂高滝谷での合宿、61年3月には前穂高東壁三ルート同時登攀、63年1月甲斐駒七丈沢大滝、67年8月穂高滝谷グレポンジェードルルート初登、同年12月谷川岳一ノ倉沢烏帽子奥壁〜コップ正面、衝立中央稜〜コップ左岩壁の継続登攀、68年3月幽の沢中央壁右フェースなどを登った。

 70年代に入ると、73年に穂高滝谷のPIIフランケジェードルルートの冬季初登、74年12月から75年1月にかけ前穂東壁右岩稜〜Dフェースの継続、75年2月は谷川岳幽ノ沢中央壁正面フェースをダブルアックスで直上、3月には剣岳の源治郎I峰平蔵谷上部フェース〜チンネの継続登攀を行った。70年代後半には、76年1月にヨーロッパモンブラン・フレネイフェースのボナッティ=ザッペリルートの冬季初登、国内でも谷川岳幽の沢左フェース、奥鐘山広島中央、唐沢岳幕岩S字各々冬季初登、77年2月には谷川岳一ノ倉沢滝沢ルンゼ状スラブ初登。また困難なフリーの混じるルートを冬季に試み、唐沢岳幕岩、甲斐駒赤石沢奥壁左ルンゼなどを登った。

 82年谷川岳一ノ倉沢最後の課題と云われた烏帽子大氷柱を初登、フリークライミングで力をつけ高難度の冬季登攀をめざし、明神V峰東壁中央リンネ、丸山東壁大チムニー、鹿島槍北壁の氷のリボン、谷川岳幽の沢中央ルンゼ大氷柱初登と続いた。

 95年のパタゴニア・セロトーレ、96年カラコルムのトランゴ・ネームレスタワー、98年ヨセミテ・アストロマンを始め、ニュージーランド、カナダ、イギリスと海外においても多岐に渡り活動している。個人が様々な遠征隊に加わる場合も多くエベレスト、アンナプルナ、アマダムラブ、アムネマチン等の遠征に参加している。99年にドライツーリングで谷川岳幽の沢中央壁右フェースにオリジナルルートをトレース、2000年に入り、谷川岳一ノ倉沢烏帽子奥壁大氷柱をワンプッシュと続く。

 現在ではクライミングが様々なジャンルに分かれていく傾向にあるが、それぞれを抱合しながら、登攀意欲を喚起する山をステージとしたクライミング全般に取り組んでいる。50キロの荷物を背負い入山した頃と、高難度フリー、ミックス、ドライツーリングと言う登攀に共通しているのは、開拓、初登を含む創造的なクライミングであり、その根底において真摯に山と向き合っていることである。それを可能にしているのが良き個人の集まりとしての山行であり定例集会、キャンプ集会、鷹取集会などの活動である。その精神は冒頭の創立山行の記録に描かれている。

(参考文献:J.C.C.40周年記念誌、J.C.C.年報クライマースリポート、J.C.C.月報)


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